ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)¶
Peter Paul Rubens(1577-1640)はバロック期のフランドル人画家である。 祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画を含む歴史画など、様々なジャンルの絵画を制作した。
概要¶
ルーベンスはバロック期を代表するフランドル人画家である。 現在のベルギー国内にあるアントウェルペンにて大規模な工房を経営し、多くの作品をヨーロッパ中に送り出していった。 その作品の中には弟子との合作も少なくなく、メインや仕上げのみをルーベンスが担当し、 それ以外の部分を弟子たちが描く作品も少なくない。 影響を受けた画家にはミケランジェロやティツィアーノ、カラヴァッジョが挙げられ、彼らの作品の模写も行っている。
画家以外の面でも優れ、人文学者としての側面や、美術品収集家としての側面も持つ。 さらには、七カ国語を駆使し、外交官として働いたこともあり、外交官として赴いた地で出会ったティツィアーノの絵に影響を受けるなどもしている。 スペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からないと爵位も受けている。
生涯¶
ルーベンスは、プロテスタントの両親のもと、ドイツで生まれる。 父親のヤンは法律家であったがスペイン領ネーデルランドにいたが、当時プロテスタント迫害を受け、夫婦でドイツのケルンに逃れた。 その後、オランダ総督ウィレム1世の妃アンナの法律顧問兼愛人となってジーゲンに居を移すが、愛人であることが発覚して投獄される。 その後釈放されたヤンと妻マリアの間に生まれたのがルーベンスである。 1587年に父ヤンが死去した後、一家は故郷であるオランダのアントウェルペンに移住した。
アントウェルペンに戻ったルーベンスは人文主義教育を受けるも、家族は生活に困窮しており、13歳で小姓に出される。 ここで芸術的素養を見抜かれ、見習いとして芸術家に弟子入りした。 ルーベンスは先人たちの作品を模倣・模写して修行に励み、1598年に修行を終え、一人前の芸術家としてギルドの一員になった。
1600年、巨匠の作品を現地で学ぶことにしたルーベンスは、推薦状を携えてイタリアに赴いた。 最初にヴェネツィアを訪れたルーベンスは、そこで彼の晩年まで大きく影響することになるティツィアーノの作品に出会う。 その後マントヴァ、フィレンツェを経由して、1601年ローマに到達したルーベンスは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった三大巨匠の作品や、『ラオコーン像』などに大きな影響を受けた。 また、当時のローマはカラヴァッジョの最盛期であり、彼の作品にも大きく影響を受けており、後に彼の複製画を作成したり、作品の買い付けを手配したりしている。
1603年、ルーベンスは外交官としてスペイン王フェリペ3世を訪れる。 そこで先代フェリペ2世が収集したラファエロとティツィアーノの大量の作品を目にする。 1604年にイタリアに帰還したルーベンスは、各地を転々としながら肖像画を多数制作していく。 イタリアでの経験は後のルーベンス自身にとどまらず、彼の残した作品が後世の画家にも大きく影響を与えた。
母マリアが病に倒れたことをきっかけに、ルーベンスはアントウェルペンへと戻った。 その後1610年に工房を作ったルーベンスは、弟子とともに数多の絵画制作を行っていった。 この工房の弟子出身者には、アンソニー・ヴァン・ダイクなどが含まれる。
1621年にネーデルラントとスペインの休戦期が終わると、スペイン・ハプスブルク家の君主たちがルーベンスを外交官として徴用するようになる。 画家としての活動を並行しながら、ルーベンスはスペインとイングランドの王宮を何度も往復した。 爵位を与えられたのもこの頃で、1624年にスペイン王フェリペ4世から、1630年にイングランド王チャールズ1世からそれぞれナイト爵を得た。 さらに、1629年ケンブリッジ大学から美術修士号を授与された。 諸国を回りながら各地で作品を生み出すことで、ルーベンスの国際的な名声はますます高くなり、工房でも多くの絵画注文をこなし続けていた。
1626年に最初の妻イザベラを亡くしたルーベンスは、1630年、ロンドンでの任務を終え、アントウェルペンへと戻る。 当時ルーベンスは53歳と晩年を迎えていたが、16歳のエレーヌ・フールマンと結婚する・ 彼女をモデルとした女性像を、以降の作品で数多く見ることができる。 慢性の痛風を患っていたルーベンスであるが、1640年に死去した。 最初の妻イザベラとの間に3人、二番目の妻エレーヌとの間には5人の子供を残したが、一番小さな子は当時生後8ヶ月であった。