レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606-1669)¶

図 1 自画像(1640頃)¶
Rembrandt Harmenszoon van Rijn (1606.07.15-1669.10.04) は、ネーデルランド連邦共和国の画家で、バロック期を代表する画家である。 レンブラントの通称で広く知られ、大画面と光と影の明暗を用いた技法を得意とした。
概要¶
レンブラントはバロック絵画を代表する画家の一人であり、「光の画家」「光と影に魔術師」などと評される。 同じオランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに並び評される。 レンブラントは油彩だけではなくエッチング等による銅版画あるいはデッサンなどの作品も多く残しており、展示会などでその多くの作品を見ることができる。
生涯¶
1568年から1648年にかけてネーデルランド諸州がスペインに対して反乱を起こし、後にオランダが誕生した。 この戦いを80年戦争あるいはオランダ独立戦争と呼ぶが、その最中の1606年、ライデンの中流階級の製粉業の家庭に生まれる。
1613年にラテン語学校に入学、1620年に飛び級でライデン大学へ入学許可を得る。 兄弟が家業の製粉業に就く中唯一進学したレンブラントは法律家になることを期待されるが、1年ほどで画家を志すようになる。 絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだレンブラントは、1624年の半年間、アムステルダムのピーテル・ラストマンに師事し、カラヴァッジョ派の明暗を用いる技法など多くを学んだ。
アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、制作に乗り出す。 新たな領域にチャレンジすることにも熱心なレンブラントはエッチングに手を出すようになったが、ちょうどヨーロッパにおいて絵画以外にエッチングが流行ってきていたこもあり、レンブラントの名が広がっていった。 当時のオランダ総督の秘書官にも目をかけられ、名声を獲得していったレンブラントにとってライデンが狭くなっていった。 レンブラントも父親を亡くしたタイミングで、アムステルダムへと移ることとした。
1631年、アムステルダムにいる交流のあった画家ヘンドリック・ファン・アイレンブルフの工房に移り、ここで肖像画を中心に仕事をこなし始めたレンブラントだが、翌年大きな仕事を受けた。 ここで制作したのが『テュルプ博士の解剖学講義』であり、これによってレンブラントは高い評価を得た。
アイレンブルフの家に間借りしていたレンブラントであるが、彼のいとこであるサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合い、1633年に婚約する。 正式なアムステルダム市民となったレンブラントは、サスキアの親族の富裕層へのコネクションもあり、1635年、独立したアトリエを構えることとなる。 弟子を教育しながら自身の制作も続けた。 そしてついに1639年に邸宅を購入し、大きな規模の工房を主催した。
1642年、『夜警』を完成させて賛辞を得る一方で、レンブラントは妻サスキアを病気で亡くす。 この頃から、レンブラントの人生に影がかかるようにになる。 まず、幼い息子を抱えながら多くの仕事を持っていたレンブラントであるが、乳母として雇った女性と愛人関係になる。 また、作品に対しても批判が出るようになり、特に肖像画など依頼主とレンブラントの目指す芸術性が乖離するようになった。 さらに、完璧主義者であったレンブラントは、顧客を待たせることでも有名だった。 こうして仕事を減らしていったレンブラントではあるが、浪費癖は治らず、さらに新たに雇った若い家政婦を愛人としたことで、かねてより愛人だった乳母との関係も泥沼化した。 結局裁判の末、彼は乳母との関係を清算した。
その後金銭に事欠くようになったレンブラントは、自身の作品や美術品を売却しながらその場をしのいでいたが、1652年に英蘭戦争が勃発したことによって、債権者たちからの取り立てが厳しくなる。 高等裁判所によって財産の管理及び処分が行われ邸宅も失ったレンブラントは貧民街に住み着くが、愛人だった若い家政婦と息子ティトゥスが画商を開き、そこに雇用される形で画家としての活動を続けた。 レンブラントの名声は依然として健在で、1667年にはトスカーナ大公国のコジモ3世が彼の自画像を購入するも、レンブラントの人生は好転することなく、1669年10月4日、息を引き取った。