ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)

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図 7 オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像画(1621頃)

Michelangelo Merisi da Caravaggio(1571.9.28-1610.7.18)は、バロック期のイタリア人画家。 ルネサンス期のあとに登場し、1593年から1610年にかけて活動した。 非常に写実的に人物を描く手法と、光と陰の明暗を使い分ける劇的な表現が、バロック絵画の形成に大きく影響を与えた。

概要

カラヴァッジョは、バロック絵画を代表する画家である。 イタリア北部のイタリアで修行を積んだカラヴァッジョは、ローマにて名声を獲得した。 この時に制作した『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』は、彼の代表作である。 パトロンに恵まれ天才的な才能を発揮していたカラヴァッジョであるが、その人生は決して順風満帆ではない。 生来の素行の悪さが災いし、暴れて捕縛されることもあり、最終的に殺人を起こしてローマを逃げ出している。 逃げる先々でも乱闘を起こし困窮したカラヴァッジョは、恩赦を求め作品とともにローマへ向かうも、途中で熱病に冒され、38歳でその人生に幕をおろした。 未だ推測の域を出ない部分もあるものの、それまでの様式と一線を画すかのような劇的な描画手法に、荒々しい性格に端を発する激動の人生は、今も多くの人を魅了する。

生涯

「カラヴァッジョ」というのは、イタリアの地名である。 1571年にミラノで、カラヴァッジョ公爵三兄弟の長男として生まれた。 1576年にペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へ移住した。 1577年に父を、1584年に母を亡くしたカラヴァッジョは、ミラノで4年間修行を積む。

1592年に喧嘩で役人を負傷させたカラヴァッジョは、着の身着のままの状態でミラノからローマへと逃げ込んだ。 その後、ジュゼッペ・チェーザリの工房で助手を務めるようになったカラヴァッジョは、画家としての力量を発揮していく様になるが、病気に罹患して工房を解雇される。 『病めるバッカス』(1593年頃, ボルゲーゼ美術館)は、ひどい病気に罹患して工房をクビになった後の、回復しつつある自分自身を描いた自画像ではないかと言われている。 1594年、カラヴァッジョは独立した画家として生計を立てていく決意をした。 当時の彼は生涯の中で極めて底辺にあった時期であるが、後のカラヴァッジョにとって重要な存在となる多くの人物と出会っていく。 同時に『リュートを弾く若者』(1596年頃, バドミントン・ハウス, グロスタシャー) 『トカゲに噛まれた少年』(1593-1594年頃, ナショナル・ギャラリー, ロンドン) 『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(1598-1599年頃, 国立古典絵画館, ローマ)などを制作している。

1599年、カラヴァッジョはサン・ルイジ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。 このとき制作したのが『聖マタイの殉教』(1599-1600年, サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタッレリ礼拝堂, ローマ)と 『聖マタイの召命』(1599-1600年, サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタッレリ礼拝堂, ローマ)である。 暗闇から人物が浮かび上がるかのような両作品であったが、当時の画家たちの間で評価は割れた。 特に若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描ける画家であると称賛してやまなかった。 その後カラヴァッジョに多くの依頼が舞い込むようになるも、特に暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多かった。 特にイタリア貴族からの依頼で制作された『キリストの捕縛』(1602年頃, アイルランド国立美術館, ダブリン)は、 200年以上に渡って失われた絵画とされていたが、1990年にダブリンのイエスズ教会で見つかった。

ローマで最も有名な画家となっていたカラヴァッジョであるが、その名声は長くは続かない。 生来素行が悪かったカラヴァッジョであるが、その不品行ぶりは当時の警備記録や訴訟裁判記録に綴られている。 そしてついに、1606年5月29日に、カラヴァッジョは誤ってある若者を殺害してしまう。 これまでは有力者である多くのパトロンによって素行の悪さを大目に見られてきたカラヴァッジョであるが、殺人者となってローマを逃げ出した。 カラヴァッジョはローマの司法権が及ばないナポリへと逃げ、そこから更にマルタ騎士団の庇護を求めてマルタへと逃げ込んだ。 マルタでは騎士団の公式画家とするために騎士として迎え入れられ、作品を制作していった。 しかし、1608年8月までに、カラヴァッジョは投獄されている。 理由は長く議論されているが、喧嘩の末騎士に怪我をさせたためだと言われており、騎士団からも除名されている。

投獄されたカラヴァッジョは脱獄し、知己を頼りにシチリアへと向かう。 旅の途中でも絵画制作の依頼を多額の謝礼で引受け、各地で名声を獲得していった。 しかし、9ヶ月のシチリア滞在後、カラヴァッジョはナポリへと戻ってくる。 これはカラヴァッジョが敵対者から付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまで一番安全な場所と考えたからである。 しかし、ナポリにおいても襲撃を受け、結果顔に重傷を負ってしまった。

1610年夏、有力者のパトロンたちの協力により、ローマで恩赦を受けることになった。 返礼として3点の絵画を携えたカラヴァッジョであるが、途中で熱病に冒され、そのまま帰らぬ人となる。 カラヴァッジョの死については未だ推測の域を出ない部分も多いが、38歳で人生に幕をおろしたことは間違いない。

代表作品

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図 8 マタイの殉教(1599-1600, The Martyrdom of Saint Matthew, サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタッレリ礼拝堂, ローマ)

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図 9 マタイの召命(1599-1600, The Calling of Saint Matthew, サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタッレリ礼拝堂, ローマ)