エドヴァルド・ムンク(1863-1944)

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図 15 Edvard Munchの1933年の写真

Edvard Munch (1863.12.12 - 1944.1.23) は、ノルウェーの国民的な画家。 『叫び』の作者として、世界的に有名である。

概要

エドヴァルド・ムンクは、ノルウェーに生まれる。 歴史学者や聖職者を排出し父親も医者という博識な家系に生まれたムンクであるが、その幼少期は穏やかなものではなかった。 病弱な幼少期に、1868年に母親を病気で、1877年には姉を亡くした。 この身近な家族の死の経験が、後の作風に大きく影響を与えている。

祖国ノルウェーとパリやベルリンなどを行き来し、世紀末の思想や文学、ポスト印象派などの芸術と出会う中で、象徴主義的な精神風土や家族の死、女性関係など自身の抱えるトラウマに根ざした独自の画風を確立した。 アルコール依存や神経症に悩まされ、精神病院に収容されるなど、その人生は決して平和なものではなかったが、作品にもその影響が色濃く出ていたものの、次第に国際的な評価を築いた。 不安や孤独といった近代的な人間の感情を強烈に表現したムンクの作品は、20世紀における表現主義の先駆けとなった。 ちなみに精神的な不安定さからか、作者自身による自画像作品の数は非常に多い。

特にムンクが多くの作品を制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、リアリズムを離れ、人間の神秘の追求に向かった。 代表的な作品である『叫び』(1893年, オスロ国立美術館)もこの時代の作品である。 作品の多くはムンク美術館などの美術館に収蔵されており、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇るため、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年に1億1990万ドルで落札されたことは大きなニュースとなった。

生涯

父クリスティアンは船医や軍医を歴任し、1861年に結婚し、翌1861年、姉のヨハンネ・ソフィエが生まれる。 1863年12月12日、ノルウェーのロイテンにて、エドヴァルド・ムンクは生まれた。 1864年にクリスチャニア(現在のオスロ)に移り住み、結果3女2男の兄弟となるが、末の妹を産んだ後、母ラウラ・カトリーネは他界する。 その後、母の妹であるカーレン・ビョルスタが、ムンク家の世話をすることになった。 父クリスティアンはもともと信心深い性格だったが、母の死をきっかけに、狂信的にキリスト教への信仰をするようになった。 そんな父の様子に衝撃を受けたムンクは、「病と狂気と死が、私のゆりかごを見守る暗黒の天使だった」と述懐している。

1877年、生まれつき病弱だったムンクは吐血と高熱を患う。 ムンク自身は回復したが、姉ソフィエは母親と同じ結核を患い、死に至る。 姉の死がムンクに及ぼした影響は大きく、彼女が息を引き取った椅子を生涯手元に置き、さらにその死を主題にした作品を繰り返し制作した。

1880年、ノルウェー国立絵画学校(現在のオスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。 展示会にも出品するも、彼の作品は評価されなかった。 これ以降、しばらく彼はノルウェー国内での展示会で酷評され続けることとなる。 1890年からパリに留学したムンクは、クロード・モネやカミーユ・ピサロら印象派の画家から大きく影響を受けた。 途中病気で退院したり、恋愛によって精神的に追い詰められてカジノで奨学金を浪費したりもしたが、作品を制作していく。

1892年にノルウェーに帰国した後、ベルリン芸術家協会の招待を受けてベルリンにて個展を開催した。 これが彼の国際舞台デビューであったが、当時印象派が満足に浸透していないベルリンで憤慨と嘲笑を誘い、個展はまさかの1週間で打ち切りとなった。 なお、ムンクが非難の的となったこのスキャンダルであるが、後のベルリン分離派誕生の端緒になった。 このあとベルリンを拠点としたムンクは、安宿を転々としながら、『叫び』(1983年, オスロ国立美術館, オスロ)や『叫び』(1894年, ムンク美術館, オスロ)といった<生命のフリーズ>の中核をなすものを始めとし、多くとの作品を制作した。

1898年、裕福な家庭に生まれ育ったトゥラ・ラーセンと出会う。 1899年にトゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。 この旅に触発され、ムンクは生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』(1900年, ムンク美術館, オスロ)を制作した。 ベルリンへ帰国する最中、トゥラが結婚を迫るようになり、ムンクは次第にトゥラを避けるようになった。 トゥラはストーカーの用にムンクを追いかけ、ムンクに対して訴訟を起こしたり、ムンクのアトリエを訪れて制作を妨げたりした。 どうしてもムンクに会えないトゥラは、友達を介して「トゥラが自殺を図っている」とムンクに伝え、ムンクが自分に会いに来るよう仕向ける。 具体的なやり取りは定かではないが、そのやり取りの中で拳銃が暴発し、ムンクは左手中指の一部を失った。 この事件で二人は破局し、ムンク自身は生涯独身で過ごすこととなる。

ムンクは欧州各地て個展を成功させる一方で、アルコール依存や神経症に悩まされていく。 1908年はムンクはアルコール依存症を治すため、コペンハーゲンにて自発的に入院するが、アルコール性痴呆と診断される。 この入院は8ヶ月間に及び、1909年に退院してノルウェーに戻る。 なお、ムンクの作品はムンク美術館(1963年、ムンクの生誕100周年を記念してオープン)にその半分以上を収蔵されている。 これはムンク自身が自分の作品を「子供たち」と呼び簡単に手放さず、ノルウェーに戻って家を手に入れたあと、自作に囲まれ制作を続けた。

晩年、大学講堂の壁画を完成させた後、エーケリーに家を購入し、そこで時間の殆どを過ごすことになる。 1940年以降のナチスによる占領下で、ムンクは戦争を避けるように生活していたが、1943年の誕生日直後、付近の港で爆発が起き、衝撃で家の窓ガラスが吹き飛ぶ。 寒さから気管支炎を患ったムンクは、その1ヶ月後、1944年1月大量の作品に囲まれて独り亡くなった。 ムンクの死後、彼の遺言状(1940年作成)に従い、彼が所有する全作品はオスロ市に遺贈された。

代表作品

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図 16 叫び(1893, The Scream, オスロ国立美術館, オスロ)

よく勘違いされがちであるが、この人物は叫んでいない。 自然を貫く果てしない叫び声が聞こえて、耳を塞いでいる様子である。 この作品自体ムンクの実体験によるものとされるが、当然実際に叫び声がしたわけではなく、彼の幻覚・幻聴によるものとされている。 その瞬間について、ムンクの日記には次のように記されている。

「友人ふたりと道を歩いていた。 日が沈んだ。 空がにわかに血の色に染まる――そして悲しみの息吹を感じた。 僕は立ち止まった。 塀にもたれた。 なにをするのも億劫。 フィヨルドの上にかかる雲から血が滴る。 友人は歩き続けたが、僕は胸の傷口が開いたまま、震えながら立ち尽くした。 凄まじく大きな叫び声が大地を貫くのを聴いた」

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図 17 地獄の自画像(1903, Self-Portrait in Hell, ムンク美術館, オスロ)